ふたりのzakki

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とかくこの世は生きにくいのだ。

さっさと死のうと思っていた自分へ、いつか死ぬ自分へ。(tobe)


今日もまた人が死んでいる。
その同じ瞬間に生まれた命があって、公園で遊ぶ子どもがいて見つめ合う恋人がいて、酒に溺れる大人がいて非行に手を染める青少年がいる。
tobeは今日、ピーナッツクッキーと杏仁豆腐とチョコレートを食べた。実に罪深い!しかし仕事もちょっと進めたので、100点満点の土曜日だ。


…世界は全然ひとつじゃない。



死ぬことを考えた10代の終わり

10代が終わろうとしていた頃、なんとなく「30歳になったら死のう」と決めた。順当に考えておよそ健康体でタイムリミットを迎えそうなので、セルフ始末しようと考えた。

illdome.hatenadiary.com
前回、俯瞰的な視点で友人たちの話を書いたのに、「お前も病んでるんかーい!」とツッコまれそうだけど(誰に)、精神を患うようなマイナスなニュアンスではない。
穏やかな精神状態で、ぼんやり考えたことだ。


「意味のないこと」が嫌いだった。それは自分自身に対しても同じで、学生の内の濃い人生に比べてこの先は退屈一方だと感じ、反吐が出そうになっていた。
初めてちゃんと自分が死ぬことについて考えた。反抗期で父親にシネシネ思っていたそれとは全然違うリアリティで、冷静に、自分の閉じ方を考えた。

なるべく人に迷惑をかけないように死のう。方法はいよいよになってから調べるとして、まずは諸々の手続きにかかる費用と、迷惑料がたっぷり払えるぐらい金を残さなくては。
貯金が趣味になったのはその頃からかもしれない。

そうすぐにはお金は貯まらないし、好きなアーティストがそのとき30歳ぐらいだったから、とりあえずそこまでは生きることにした。(お前と一緒にアーティストも歳取るのにな。)
21歳ぐらいまでは、明確にそう括っていた。その頃知り合った友達にチョロっと言ったら「そっかぁ、寂しいなぁ」とだけ返してくれた。いい友達を持ったと思った。

 

 

…ということを、ついこの間ふと何でもない瞬間に思い出した。
忘れていた。すっかり忘れられるほど、熱中できる状況になっていた。

税金や保険料を自分で払うようになって、親を最後まで看る責務も感じ始めたし、健康状態を保つことを以前よりずっと大切にするようになった。心の休息を取るための何もしない日の存在を悪だとまったく思わなくなった。
30歳から先に就く仕事についても想定して、今のうちに何か資格を取っておこうとか検討している。

生きる気、満々じゃん。


きっと「牙を抜かれたな。つまんねえ大人になりやがって」って言おうとしてるだろ、18のお前。
だっせぇセンセーショナルだったなぁ!

残念だけど、お前の年齢よりまだ先につらくて大切な欠かせないセンセーショナルが待っている。もっと心を震わせるような出来事は大人になっても存在する。
だいたい、年食ったってだけで「大人」なんていないからな。みーんな子どもの続きだ。つまんねえのはそいつが大人だからじゃなくてつまんねえからだ。

そんで、今の世の中と自分を見てみろ。お先真っ暗、一歩間違えたら無職だぞ!面白いだろ。東京オリンピックは延期だ。報酬も滞納されてる。誰も明日を約束してくれない。逆に死にそうだぞ!
でも今が一番楽しい。そりゃ昔も楽しかっただろうけど。面白いぞ、仕事するのも、物作るのも。
いつか死ぬときのためにしていた貯蓄が経済不況に生きる不安を少しだけ和らげてくれている。モラトリアムで逃げた趣味が今の仕事につながってる。

苦しめ恨め。いっぱい考えろ。意味のない寄り道を愛せ。その上に今の己がいる。


「いつか死のう」というのは結構元気なときに合理的に考え出したことなので、一理ある意思として心の隅にまだ存在している。でも今は一時休戦だ。うっかり人と未来に約束をしてしまった。あれが現実になるのは至難そうだが、死ぬのはそれを果たし終えた後でいい。
そうやって長生きしちゃうオチちょっと見えちゃってるけど。

ま、また暇になって未来を憂うときか、人生に満足し切ったら、議論を進めよう。



あと5年。

25歳になった今、あのときの自分に従うとすれば、残されているのはたったそれだけだ。
そう考えると、幾分か荷が軽くなってするべきことも澄んで見え、明日も頑張って生きようという気力が湧いてくる。今もどこかで生きていくことのリスクに常々重さを感じているのは事実だ。
無責任だけど「今度死ぬから、一旦そこでリセットかけられるから」っていう設定で、今を走り抜けるのは生き方のコツのようにも思うよ。


そりゃもちろん、セルフ始末を選ばなくても、老衰で死ねるなんて幸せな保証は今日日どこにもない。過労、事故、病気、天災。いつかいつでも、人は死ぬ。


だけど、見渡せない遠くを見るのはしんどいよな。




「いつか死を選ぶこと」を許せる世界になったらさ、もう少しだけ生きながらえることができる人も増えるんじゃないかと思ったりする。もうちょっとだけ人生延長のつもりで、掬えるものも少なくない。
自分もそうやって、きっとフツーに死んでいく。

 

忘れてほしい。詮索されるために死んだわけじゃない。
悔やまないでほしい。個人の意思を否定しないでくれ。
葬式は開かないでくれ。勝手に心中ビンゴ大会なんて御免被る。
偲ばなくていい。呪ったりしないから。
恨んでくれていい。なるべく迷惑をかけないようにするけど。
追い詰めた人物なんていない。強いていうなら己だけだ。


続きをまた書くときまでちゃんと取っておこう。
さっさと死のうと思っていた自分へ、いつか死ぬ自分へ。


 


tobe



P.S. こんな話を書き進めていたら、著名で若い俳優が亡くなったというニュースで世の中が持ちきりになっていた。
あり得ないという深層心理からか、第一報を事故と空目した。自殺だった。

テレビで知らされなければ一生知らない距離の人の訃報で、憶測ポエマーが結構な数湧いているのが気味悪い。自分も赤の他人の一人だが、彼に申し訳ない気持ちになった。完遂してなお、ため息をつきたくなっていないといいけれど。

…なんて、勝手に心中お察ししてしまったので晴れて自分も連中の仲間入りだ。