ふたりのzakki

ふたりのzakki

とかくこの世は生きにくいのだ。

「継続は涙なり」だったわ(tobe)

はてブのアプリ入れてるんですが、「◯週間継続中」って表示が出るんですよ。
今うちは5週間らしいです。ガンバレ〜!


唯川の最後の更新から久しいですが、感情の起伏は誰にでもあるさ。とりあえず継続表示がテンション上がるので、自分が繋いでおこうと思って更新してます。「tobeうるせー!唯川うつ日記について聞かせろ!」って思われとるかも知れん。笑
唯川ちゃんいつでもまた書いてな。

 

我々はファンコミュニティで出会った(もう二人とも辞めてる)同い年という以外に共通項が全然ないので、現在進行形で名に恥じぬ雑記ぶりを発揮しています。
きっとこれからも。自分ひとりとっても、いろんなジャンルに影響を受けてだらだらと考えを垂れ流してる。

我々、なぜブログを始めたかというと、「知らない人に向かって(または自分の心に向かって)正直に話してみたかったから」です。
どうしても実社会でつながりのあるコミュニティでは、言いづらいこともあるから。


加えて、tobeは大学で出た2000字程度の雑魚レポートを最後に、自分の考えを発信してこなかった。140字で小出しにすること以外で。
自分のパソコンを持っていなかった中高生の頃は、タイピングしたいがために文章を創作していたぐらいだった。どこにも公開することのないまま、未完で放置された1万字超の小説もある。そのぐらい、言葉が溢れてきていた。

 

SNSって、無自覚のうちに被る実害が結構あると思う。
容易く感情を消化してしまい、トイレに流しちゃうような。実際取るに足らない感情だったとしても、己から生まれた気持ちを雑に扱うのは、長期的に見て健康じゃない。
知り合いに見られることを常に意識して言葉を重ね、考えを抑圧し、発信を恐れた。聞こえもしない、見えもしない悪い噂や目線に、一人のときも怯えた。


SNS(主にツイッター)をだらだら続けて6年ぐらい。
感情の泉が死んでいた。


仕事でも言葉を紡がなければならない人間なので、「言いたいことが特にない」状況にやべえやべえ…!と焦りながら、今日まで来てしまっていた。
ここらでリハビリがしたかった。

という。

 

 

ただ雑言を書き殴るなら日記帳でよく(というか世界には出さん方がええ)、聞いてほしいのであれば聞き上手の友人に委ねればいい。
でも、"自分がどこの誰であるか"を伝える必要がなく、誰かに必ず届けようというものでなく、期待で潰されていないピュアな心をニュートラルに発信できる文章にこそ、自分がきちんといる気がする。

誘ったのはtobe。乗り気になってくれたのが唯川。
きっとそれぞれ別の理由で、自分のニュートラルと再会する必要がある。
のを、内心で自覚していたんじゃないだろうか。



このあいだ、数年ぶりに人前で泣いた。
泣いたというか、話を聞いている途中で静かに涙が零れた。怒られたのでも悔しかったのでも、悲しかったのでもない。自分でも戸惑い、相手に理由を正しく説明することもできなかった。

ただ、漠然と幸せを自覚して、辛かった。


君の名は。」でも見せておけば何度でも泣けるぐらい物語や人の感情には涙脆い。でも我がエモーショナルとなると、涙はアマゾンの奥地へと息を潜めてしまう。
悔しいときはよく泣いたけど。怒られたとき。理不尽に反撃できなかったとき。自分の無力さを呪ったときは。
それも除くと、風邪引いて吐いてる時ぐらいじゃないか、しんどくて泣いた最後なんて。

単純に強がりだし、小学生のときにいじめられて以降やんわりと人間不信なので、防御せず人と接することが難しい。でも、根本的には人がすごく好きだし、大事な友達を愛しながら死んでいきたいと思っている。

「意地を張っていなくていい、この人なら自分の弱さを笑わないだろうなと思える友達と出会えたこと」を正面からズドーンと受け止めて実感したのだと思う。
そんなこともできていなかったらしい。過去の自分に教えてあげたくなった。



まだ記事になってないこともあるけど、ブログを始めようと唯川といろいろ喋っていたあたりから、「自分について考え言語化すること」に割く時間が増えていた。
誰も待ってない。時給にもならない。でも確かに息をして、今日も生命という緻密なマシンに指示を出している大きな組織を、考える時間。



「雑記ブログやってたら泣けるようになりました」なんて言われても「は、はぁ…」といった感想しか持たないのは自分も同じだけど、ちょっとだけ変わった。
いずれはお互い、人が読む価値のあるような記事を書ければそりゃ良いけど。今は慣れるためのプレ期間なのでとにかく不器用ながら続けてみるっきゃない。



会うたびに毎回泣く奴にならないように気を付けつつ。



tobe