ふたりのzakki

ふたりのzakki

とかくこの世は生きにくいのだ。

"ノンセクシュアル"と恋と自分(tobe)

 

数年前、友達に「恋人にしたい人の条件三箇条を挙げて」という心理テストを試された。
清潔感、話し合いができる、趣味がある、とか当たり障りないことを答えた。未だ見ぬ人間を型に嵌めることにあんまり興味はない。
じゃあその条件を満たした人が目の前に三人現れたら、なんの基準で選ぶ?と聞かれた。「性欲を持った目で見てこない人」と返した。

実はそれが一番大事にしている条件だ、というのが心理テストの答えだった。


小学生のときは、周りと一緒に当然のように"好きな子"がいた。会話ができたことに喜び、誰よりも仲良くなることを望んだ。
学園恋愛ドラマを毎週楽しみにしたこともある。お気に入りは『オレンジデイズ』と『花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜』。

中学3年のとき、初めて告白された人と、初めて付き合った。
自分が好かれているという事実に浮かれたし、周囲とお揃いになれる世界への冒険が楽しみだった。

周りに倣って色違いのミサンガを付けたり、1回だけショッピングセンターに行ってプリクラを撮ったりした。
メールは仲の良いクラスメイトだった頃と同じような内容だったけど、恋人になるとたまに電話がかかってくるようになった。あとは貸したノートに手紙が挟まっていたり、彼の得意だという数学のテストで競ったりもした。(勝った)

自然体でいられないこと、を悩んでいた記憶がある。「好かれている自分が好きなだけだ」ということにうっすら気づき始めた。好かれ続けることを目的に良い人を演じたし、そういう自分に嫌気が差したから。
自分で捻り出したくせに、愛の言葉は寒気がするほど似合わない。
たぶん、その子のことは特別好きじゃなかった。


親のいないうちの家に遊びにきて、床で寝転がっている横に座った。手が繋ぎたいと言うのでしばらく無言で手を握った。

身体接触はそれだけ。


次第に、掛かってくる電話が「愛してるよ」とだけ告げて切るような、欲の匂いのする熱っぽさを醸してきた。「多汗症」という言葉を「多感症(?)」と間違えられたりもした(これは後日の推測だけど、リアクションが汗っかきへの返答の類じゃなかった)。
そのころにはもう友達に愚痴をこぼすようになっていた。言葉にするたびに、どんどんどんどん冷めていった。

受験勉強を理由に振ったあと、友達と下校中にかなり遠くを歩く彼の背中めがけて大声で叫んだのは「気持ち悪い」の一言。

ひどい行いだけど、本当にせいせいした。演じることよりよっぽどやってよかった。
思ってないことはするもんじゃないんだ。

 

そこから3年経って高校でもひとり好きな子ができたときに、初めて"付き合った先のビジョン"がまったくないことに気が付いた。

好きという感情は、仲良くなりたい、の表れでしかない。手を繋ぎたいとかキスとかハグをしたいとか。本当に、1ミリも思っていない。思い至らない。
ただ『オレンジデイズ』の胸キュンポイントについて語り、『ONEPIECE』の一番泣けるエピソードについて論争し、ウォークマンの音量が26もあることを咎め、テスト前にひそひそ話して、貸してもらったOWL CITYのアルバムの感想を伝え合う時間を。
少し遠くからの視線に気がつく幸せを、メールが続き深夜まで返ってくる喜びを、なるべく多く得たかった。

これは恋ではないだろうか?


大学生になってからできた友人がセクシャルマイノリティであることをカミングアウトしてくれた。無知だったLGBTQについて調べるなかで「ノンセクシュアル」という言葉を見つけた。

あぁ…と思った。
ここか。


ノンセクシュアル(非性愛)」は一般に、他者に対して性的欲求を抱かない人のことを指す。「アセクシュアルAセクシュアル/無性愛)」との違いは"恋愛感情の‪有無"、とのことだ。
ちなみにノンセクシャルの中でも、求められた場合は応じる人もいれば、好きでも身体接触全般がマジで無理な人もいて、その辺りはかなり大きめに括られているっぽい。


さて、そこに自分の身を置くかどうかは決まっていない。定義は用意できたけど、どうにも大半が脳内で片付けた話だ。良いものも悪いものも含めて経験値が足りないというのは、間違いなく事実。
人生の先輩たち(友達)はだいたい口を揃えて言った。

本当に好きな人に出会ったら分かるって!恋愛ってそんなものだよ。


26歳になった。そのまんま。
決まった人と顔を合わせるだけの生活を築いたのが運の尽きで、もう仲良くなりたいと思う相手すらいなくなって久しい。
それでもまだ恋愛ってやつに漠然と興味がある。一生得られないものへの憧憬かもしれない。


冗談まじりで「モテたい」と、恋愛マスター(?)・唯川に問うたことがあった。好きになれないなら人に好いてもらうまで、とか思って。
「傘を忘れて相合傘をしてもらっているとき、相手の肩が濡れないようにそっと寄れる人ってモテるよね」との回答。

準備がいいから傘忘れないんだよね!


あと、どっちかっていうと相合傘はしてあげる側がいいかな。



tobe

倒れたコップ(唯川)

疲れてるんだよ

リラックスしなよ

無理しなくていいんだよ

 


私の周りの人は優しい。

優しいのに、その優しさを有効活用できていない。

 


外は晴れていて、お散歩日和だ。

Amazonプライムに入会済みだし、Spotifyの無料体験も残ってる。

 


やれることは沢山ある。

やれる状況もある。

 


でも私は、カーテンと天井の隙間を眺めてる。

 

 

唯川

他人の家を片付けて、自分の死に様を考えた(tobe)


祖父が12年前に死んで、癌で亡くなった祖母が1周忌を迎えた。
誰もいない家には月に数回、親戚が出入りして管理している。

人の住まなくなった家は朽ちるのが早いと聞く。



人をもてなすことの多かった家で、冷凍食材、乾麺、缶詰…とにかく買い込まれたあらゆるものが戸棚や冷蔵庫の奥で眠っていた。
祖母の生前も母は帰るたびこっそり減らしていたようだったが、もう家主の許しを得る必要もない。

1周忌を終えた翌朝。母に指示されるまま庭に大きな穴を掘って、缶詰の中身をひっくり返し始めた。(庭があるとこういうことできるんだなと人生ずっと賃貸の民は思った。)

昼前に祖母の弟夫婦もやってきて片付けに当たった。


冷凍の肉も魚も転がした。日付が確認できた一番古いものは1993年製造の茶葉だった。
真っ白のはずの薄力粉が茶色になり菌で糸を引き、乾燥昆布がカビで真っ白に、上白糖はスライムに化けていた。
階段下の物置からは大量のネズミのフンと、奴らに齧られた細かいビニールや紙屑が出てきた。

二十余年、ここには年に一度訪れていた程度でほぼ他人の家に等しい。親戚と母に指示されるままに働き、そうしているうちに不思議に思ったことがあった。
私も含めた全員がこのバケモノみたいな食品や臭く汚い片付けを「やらされている」と感じていない。これだけ片付けないまま世を去ったことに悪態をつく人間も誰もいなかった。


祖母と祖父の生き様がそうさせていた。思い出と笑い話がこぼれ、各々が心の底から己の使命と恩返しのために手を動かしていた。


 

人の庭に穴を掘って食べ物を捨てる貴重な体験しながら、死に様ばかり考えていた。
二人を弔う感情ではなく、今生きる人間として祖父母が羨ましくて仕方がなかった。

長生きをするなら、こんな逝き方がしたかったな。



祖母は入院していて余命が分かっていたので家族全員が見舞いに来られた。祖父の葬式にはなんだか大勢の人がいた。

あのときは本当に世話になって。
惜しい人を亡くした。
もっとあんたとしたいことがあったよ。

そう口にする人たちを見るたびに孫として誇らしく思う半分、絶対に超えることのできない強大な壁を目の前にした気持ちになっていた。

あと50年余生きても、この景色は絶対に望めない。と、思う。
余裕のある一軒家を持ち客をよく招き、早期退職したあとは老後の生活を悠々自適に。相手を信用しいくらでも手を差し伸べお互い様で暮らしていく。
そういう時代じゃない。

 

おまけに世界では増加し続ける人口が食糧を喰らい尽くし、そう遠くなく戦争が起こるとか囁かれて久しい。妙なウイルスでそうじゃなくても不穏な火種はいくらでもあるし、自然の猛威も猶予なく待っている。

そういう未来の待っている地球に、誰かと寄り添って子孫を残そうという気概は持ち合わせていないし孤独死の老人になるまで粘る理由もない。


「人間は豊かになるほどに不幸になる」という統計結果をどこかで聞いた。
考えるほど絶望的だ。



築50年の祖父母の家は、主人を失ってもなお温かさを伴ってそこに在る。

 



(去年書きかけてたの無理矢理仕上げた)
tobe

ファザーコンプレックス(tobe)

「なんだその態度は!!!!」
大声で怒鳴って、机を殴る。椅子を蹴る。頬を叩く。

「泣かせたかったわけじゃないんだ……ごめんね」
バツが悪くなると頭を撫でたりしたあとそう言い残し、自分の部屋に帰っていく。



そういう父の姿は常だった。
私は大人の男の本気の怒鳴り声がいまも苦手だ。
ベルの音を聞けば涎が止まらなくなるパブロフの犬よろしく、感情を待たずに涙が止まらなくなる。萎縮する。恐怖する。

 

 

まだ周囲で結婚している友人は少ないが、26歳あたりから結婚ラッシュの第一陣が始まるらしいことを知っている。もう来年の話だ。

死生観、恋愛や結婚観の話をすることが増えた。
恥ずかしかったりリアルじゃなくてできなかったそういう話を、できるぐらい総じて精神年齢が上がってきたんだと思う。

まだ見ぬ彼氏を求めて出会いに積極的な友人、結婚式に夢を抱き貯金に勤しむ友人、母に孫を見せたい友人、キャリアが大事で結婚はどっちでも良いけどとりあえず同棲している友人。
いろいろいる。

「どんなパートナーが自分の理想か」という話をするとき、「自身の家庭や生育環境」の話に波及することは少なくない。
子どもの頃から「うちはこんな良い家族だよ」という自己肯定ベースでエピソードを話していたのだが、見栄を張らずに客観的事実を話すようになってから分かったことがある。

うちの父ってDV人間だったんじゃね?

 


・突然大声を出し物を叩いて、相手を威嚇する
・たま〜に手や足も出る
・キレる理由がだいたい「態度が気に入らなかったから」
・平均30分は中身のない説教が続く
・月1回ぐらいは何かしらを理由にキレられる
・気が済んだら急に手を引き、泣き疲れた子どもに「そんなつもりじゃなかったんだ」と優しく声をかける
バツが悪くなると立ち去る

友人たち顔を引きつらせながら話を聞いていた。
どうやら普通のお父さんはこういう風に怒らないらしい。


例えば出血やアザができるほど殴るだとか、寒空の下ベランダで一晩放置されるとか、そういう明確なものはなかった。
とくに不自由なく健康にここまで育ててもらっていることを今でも感謝している。

当時30代の父は、バブル崩壊後に就職期を迎えて、右肩上がりの経済が終わり価値観の変わりゆく社会に揉まれながら生きていた。「失われた20年」の世代だ。
理不尽な出来事や重圧が山ほどあったと思う。

50代を迎え、役職を得てから顕著に性格の変化が現れた。
今はほとんど怒鳴らなくなり、人を見下す態度もだいぶ軟化した。
経年による変化も一因だろうが、地位が安定し年収が上がり心に余裕ができたのが主要な理由だと思っている。

つまり、心の余裕がないから怒っていたのだ。あの頃は。


自分が大変だからといって、それが他人を脅かしていい理由にはならないことは言うまでもない。
それでも私は肉親の人物像をきちんと言語化するのに20年余りを擁した。

世間のDV被害エピソードを見聞きしても「ひどい親がいるもんだな」という感想を抱いて終わっていたのだけど、グラデーションが淡いだけで私もそのうちの一人だったんだろうなと理解した。

 

自分が可哀想な人間だということは案外盲点で。
そして家族という加害者を糾弾するのは本当に難しい。

 

 

父はいま、当時の話を掘り返すと「覚えてないよ〜」と笑ってごまかしたあと大体の確率で拗ねる。
面倒だなあとか、理不尽を感じている心が透ける。

 

みんなと話していると、幸せな結婚(なり人生)を歩んでくれ〜と思う反面、自分が全然そこのラインに立てていないんだと気付かされる。
フラットに自分の未来を考えることができない。ずっと、子どものころ与えられたクリスマスプレゼントの空箱の覗いて何かを探している感覚だ。
来た道の片付けが終わっていない。


ファザーコンプレックス、とでも呼ぼうか。
ニュアンスだいぶ違う気がするけど。

 

 

tobe

"推し"はエナジードリンク(tobe)

夏にハマりかけてたものとまた違う人を推しかけている。
とりあえずお金出すとこまで行ったので夏よりマジになっている。

自分で言うのもなんだけど、義理堅いなのでコロコロ好きなものが変わらない。素敵な推しコンテンツを長く応援することを大事にしたいタイプ。
少なくとも1年そこらで揺れるようなことは今までなかった。

価値観が目まぐるしく変わっている感触がある。
世界が一変してるんだから人間単位だって変わらぁな。絶対はないんだ。一生もない。


嵐のファンだった経験から思う。ずーっと好きでいられると思った。
努力を重ね輝き続ける彼らの背中は、部活、受験、就職。どのライフステージの自分にとっても指標になってくれると思った。
彼らが何かをしたわけじゃない。コンテンツは現在に至るまで素晴らしいものだと思う。
まさか自分の方からドロップアウトするとは思わなかった。人生順調レールから脱輪。
結局、自分というフィルターを一枚噛ませた先でしかその価値は定まらず、手を伸ばしたその存在をまぶし過ぎると忌避するようにすらなっていた。

そういう経験があるから、自分の応援したいと思う気持ちにあまり価値を感じていない。目の前の登山に支えとなる木の杖を探しているだけで、下山が終われば用済みになる程度だというのが割れているからだ。


任された仕事が佳境だった。
自分の手の及ばぬところでトラブルが起きて気を揉んだ。数日だったが食欲がまったく湧かなかった。
YouTubeのオススメに手を伸ばしたその先で、「推し」を見つけてしまった。

アニメ、ジャニーズアイドル、歌い手、YouTuberと様々な界隈をフラフラしてきた私がド偏見で避けていたジャンルだった。
きっと昔だったら素通りしていた。というか、心に余裕があったら偏見に基づく自己防衛でそもそも動画を再生していなかっただろう。
仕事中、少ない酸素を吸うように私はそのずっと彼のコンテンツを再生し続けた。
3分ちょっとの音源を、何時間も何時間も。

飲んだことのない、エナジードリンクを思い浮かべた。



正直、めちゃくちゃ救われた。たった1ヶ月半で、たくさん笑ってウキウキさせてもらった。偏見は知見に変わり、楽しみが幾つも増えた。
仕事がひと段落したからご褒美にCDを購入した。先行封入のシリアルで抽選に当たれば来年のイベントにも足を運びたいと思っている。


それでも、いつか離れるときのことをいつも考えている。


結局、現在地がどこであるかでしか測れない。ここではないどこかに行けたとき、私はきっと彼のことを追うのをやめると思う。ごめん。薄情でごめん。
いつか今日を思い出して苦々しい感情に駆られるぐらいなら、何かを好きになることなんて極力避けたい。のに、安寧と引き換えにコンテンツのファンになることで手に入れられるパワーは何にも替え難く、また頼ってしまう。


これ、リアルの人付き合いにも適応してねえだろうな…?と自分を疑いつつ、今は注文したCDが届くのを楽しみに待っている。

夢が醒めるまで。


tobe

10/29 夜のメモ(唯川)

私このままどこに向かっていくんだろうなぁ。どこへ向かったって許されない人生にはならないけど。

 

毎日そこそこ楽しくて、美味しいものも食べてるし、家族の笑顔も絶えなくて、心開ける友達もいる。

 

何の不自由もない。明日もきっとそこそこに生きれる。

物足りないと思うほど余裕のある毎日でもない。

 

だけど何かが足りないんじゃないかと眠れない夜がある。

娘の寝顔を見ても安らげる気分じゃない。

 

そんな夜のメモ

許せることと譲れないこと(tobe)

「"嫌だなあ"と思わないこと」を中心に行動している気がする。
この間"女性にみられるのが嫌だ"という話をした。
 

illdome.hatenadiary.com


じゃあ何なら"良い"のかといわれると、まあ「永遠の少年」が人生のテーマではあるんだけども、具体的な行動規範は案外ない。境界も曖昧だ。
この問題に限らず結構いろんなところで、「◯◯以外」という物事の選び方をしていたりする。

これがいい、は難しい。


「人生皆、イヤイヤ期なんじゃないか?」なんて。子育ても経験していない人間が言うと、ナメるなよ!と怒られそう。でも他人の拒否感情なんて、大人になろうと言葉に長けようと、到底理解できない気がする。
自分のイヤも同じで、人に行動を要求する形で伝えても仕方がない。
言えば嫌なことが起こらなくなる、と思うから不満が出る。お前の嫌は一生続く。

あらゆる価値観のすれ違いに対して、「まあ自分がわかってっからいいよ」と思える穏やかさでいたい。
それは諦めることと同等だと思うので、一抹の虚しさは伴うけれど。

まだ道半ばだけれど、コレ王道じゃないのか、と思う意見を抱くたびに、少しずつ上手に虚しさを消化している。


「本当に嫌だなあ」と思うこと
と、嫌だけど許せることがある。

譲れないときだけ反抗して生きていこう。たとえ世界を己が快適さのままに染められても、絶対に不幸になる人が一定数出てくるのだ。分かり合えない我々は、お互いの相違点を見ないフリして調和を保っているだけだから。
世界〜はひ〜とつ〜♪じゃ、全然ない。
その人たちの不幸の上に立ってまで、抑圧のない精神を手に入れたいとは思わない。


この間、次のキャリアのスカウトをやんわりと受けた。三十路過ぎた頃にどうですか、とのことだ。成果物をコンペティションに掛けてその先を競うような、いわゆる「食うため」の仕事スタイルの誘いだった。
「チャンスがあるならやりたいです」なんて、煮え切らない回答をした。

18の頃にも同じような話をされたことがあった。「Aの能力がダメだからBでだけ誘ってくるんだ」と否定された気分になって落ち込んだ(相手に他意はないと思うが)。煮え切らない回答すらも返せなかったと思う。

あなたにコレをやってほしい、ではなく、優秀な作品から選びます、のスタイルって自分がやる意味あるんだろうか?
いまの業態から離れるなら、お金を稼ぐという目的のためなら、早朝のコンビニバイトでもいい。興味のある職種って他にもいろいろあるし。
競争を勝ち抜いて超有名プロジェクトに関わりたい、という野心があんまりないのだ。世の中のそういうチャンスの仕組み自体を否定したいわけじゃない。

私は、嫌だな。という話。


正式に声が掛かることがあったら断ってしまおうな。ビッグプロジェクトに目を眩ませるなよ。正直、「いやいや、そう言わずに一度検討してくださいよ〜」と言わせるほど私は仕事したい相手じゃないということだ。立場が弱いし胃も痛い。


最近の若者はこれだから困る!と言われてしまいそうだ。根性なし!まだ一人前でもないのに向き不向きでものを考えるな!
…という人生の格言を賜れる古典的な上司のいる職場ではないので、ありがたく無視させていただこう。


母に「会社入ったら上司蹴ってやめそう」とお墨付きのtobeより